遺書
僕は茅原実里の「人生」のファンだった。
長門有希に出会い、大きく変化していく彼女の人生は正統派のシンデレラストーリーだ。
下手なフィクション作品の何倍もの物語が存在する人生が、とても魅力的だった。
抜群の運の良さを発揮するところも、少ないチャンスを確実に掴み取っていくところも、それら全てを絶妙なタイミングで成し遂げているところも、全部愛おしくて全部輝いていた。
ちょっと意味のわからない趣味も、到底常人には理解できない言動も、不器用で常識がないところも、自分の身の回りにいたら絶対に仲良くなれないと思うような部分も、彼女の持ち前の明るさと愛嬌と、そしてステージ上でのあまりにも格好良くて美しい姿があるから、全部許してしまう。
彼女は天性の人たらしなのだ。
彼女の歌う歌には「力」がある。
「夢」を実現させて「未来」を切り拓く力だ。
こんなにも言葉に説得力があって、声に魂を揺さぶられて、その表現力に涙が溢れて止まらなくなることを、僕は茅原実里のライブで初めて知ることとなる。
いつしか彼女だけではなく、彼女に携わる全ての人を同様に愛し始めた僕がいた。
最強で最高の、無くてはならない仲間であるCMB。
ものすごく優秀なのにどこか抜けている、世界中で一番茅原実里を理解している敏腕プロデューサー。
他にも色々な裏方である個性的なスタッフに光が当たって、人となりを知り、また応援したいメンバーが増えていく。
不思議な循環だった。
それもまた、彼女の「才能」のひとつであった。
彼女の周りには多くの奇跡たちが、まるでそこにあるのが当たり前かのように日常ぶって佇んでいた。
その光景が、僕はとても好きだった。
僕にはその奇跡を見続けることが何よりの幸せで、生きがいだった。
・・・・・・・
気が付くと10年以上の月日が過ぎていた。
彼女に心酔しているファンのひとりと言えども、客観的に見える様々な数字が年々落ちていることには当然気が付いていた。
旬などはとうに過ぎ去り、全盛期を知る者としては時に非常に寂しく、現状を苦々しく思うようなことも少なくはなかった。
様々な運営面での落ち度も目立ち始めてはいたが、個人的にはあくまで「本人の才能への出資」であったから、そのあたりは目を瞑ることにしていた。
それでも大切な夏の河口湖ライブは毎年続けてくれていたし、定期的に新譜のリリース、イベント出演、ツアーの開催だってあったのだから、恵まれているとすら感じていた。
最近は「声優」としての役の幅が広がっていたことをとても嬉しく感じていた。
色々なところで様々な演技を見ることが出来るなんて、想像もしていなかった嬉しい未来だ。
彼女をあまり知らないアニメファンに、彼女の演技が称賛されているところを見かけるたび、自分のことのように誇らしかった。
順調にキャリアを積み重ねてきた自信と、更に洗練されていく才能が、決して派手とは言えないが順調に花開いていく光景は絶景だった。
一方、キャリアと相反するような嘘みたいな距離感で彼女と接することの出来るイベントも増えていった。
ありえない夢物語のような現実。
永く応援していることが報われたような感覚。
彼女のおかげで得られた多くの幸せに対してのお礼を、彼女に直接言えるのが嘘みたいだった。
僕はなんて幸せ者なのだと、信じて疑わなかった。
今更多くは望まない。
ただ彼女が健康で、世界中の誰よりも幸せに、毎日笑って過ごしてくれるのであれば、僕は何も要らなかった。
何も要らなかったのに。
僕は永遠だと信じていた夢から目覚めてしまった。
・・・・・・・
先日部屋を片付けた。
部屋には沢山の彼女のグッズが律儀に整理整頓されて片付けられていたが、それらを全てもう二度と開けることはないであろう収納スペースへ、乱雑に片付けた。
今はまだ捨てるつもりは無いが、未来はわからない。
河口湖のライブは見ていない。
見ることができなかった。
お金を払う気にもなれなかった。
5月のあの日から、僕の日常から茅原実里が消えた。
あの日から歌どころか声も、動く姿も、写真も、何一つ触れることができなくなってしまった。
時間が解決してくれると願いながら距離を置いたものの、日に日に苦しみは増していった。
この世の絶望を全て煮詰めてもなお襲ってくる絶望に、苦しんでも苦しんでも思い知らされる事実はただひとつ。
こんな気持ちに苦しめられる僕は「少数派」だということ。
僕の時間は止まって動かない。
だけど世の中にいる、僕と同じだったはずの「ファン」の人たちは、決してそうでは無いらしい。
心底羨ましかった。
彼ら彼女らと僕は何が違うのだろう。わからなかった。
形だけの薄らぼんやりとした活動自粛のような「何か」はあっさりと終わりを告げ、まるで何事も無かったかのように彼女の「今」は無造作に僕のメールボックスに放り込まれてくる。
その瞬間、ファンクラブを継続したことを人生で初めて後悔した。
加えて、河口湖ライブのオンライン配信が決まってからは更に地獄だった。
立て続けに「約束」を謳った夏を強要される日々は、人生で一番つらい報道を聞かされたあの日よりも深く、じりじりと、僕を追い詰めた。
「約束」ってなんだろう。
約束も何も、前提は全て覆されたというのに?
約束は向こうから一方的に反故にされたと思っていたが、そう思っているのは僕だけのようだった。
あんなに楽しい思い出しかない夏が、河口湖が、思い出が優しく幸せであればあるほど、「楽しむことができないお前なんかは必要ない」と殴り続けてくる。
本当はすぐにでも離れることができればよかった。
それでも思春期から今まで、人生の大半が彼女を中心に回っていた僕にとって、それは一筋縄ではいかない問題だった。
きっとどこかで、気持ちが元に戻る。
やっぱり彼女が僕のいちばんで、これからも応援していこうという気持ちに戻ることができる。
そう信じていた。信じていたかった。
でも、戻らなかったのだ。
あれだけ好きだったのに。
僕の全てで、人生そのものに近い大きな…とても大きな存在だったはずなのに。
僕は、心が折れてしまった。
・・・・・・
不祥事も、人間性も、どうでもよかった。
ステージ上での姿だけが素晴らしければ、それで全く問題がなかった。
不倫なんて当事者の問題だ。
それは今回の件がなくとも、ずっとそう考えていたことだ。
極論、音楽の表現の肥やしになるのであれば、不倫だろうが薬物だろうが、殺人だろうがしていても構わなかった。
それらを裁くのは法であって、僕ではないからだ。
けれど、それがたちまち表に出てしまえば、それでおしまいとも思っている。
週刊誌報道というものを僕は心から軽蔑している。
一方で、本当のプロならこんなゴシップに撮られるようなことなどあり得ないとも思っている。
作品に罪はない。音楽に罪はない。
確かに罪はないだろうな。
でも作り手の「プロ意識が低い」ということは、僕の中では法で定める罪よりもよっぽど重いことだった。
そして僕は今回の件で、それを嫌というほど思い知ってしまった。
僕は大きく絶望してしまったのだ。
あの素晴らしい唯一無二のステージを、あれだけ「音楽を愛している」と言っていた彼女が、音楽よりも私情を優先してしまった挙句、自らの手で破壊してしまったことに。
奇跡はもう起こらない。
あの素晴らしい音楽の価値を一番理解していなかったのは、当事者である彼女という事実があまりにも悲しくて、残酷で、つらかった。
彼女なら何があっても音楽を一番に選んでくれると信じていたのは、僕の思い違いだったようだ。
室屋光一郎の弦の音色が存在しない、これからの茅原実里の音楽を楽しめる自信はない。
それほどまでに彼女の音楽は、「彼の音ありき」で作られているものが多すぎる。
例え今後弦が無くなろうとも、新しい弦が入ろうとも、音楽はあっさりとあっけなく変わってしまうだろう。
どれほど偉大なバンドであれ、メンバーがひとり居なくなっただけで破綻したものなど星の数ほどある。
ましてや今回は「核」たる人間がいなくなったのだ。損失は計り知れない。
これは決して彼に戻ってきて欲しい、彼女に決別を撤回してほしいというようなことではない。
そんなことは許されない。
わかっているからこそ、苦虫を噛み潰すしかない。
前向きな決別なら兎も角、お互いの経歴に等しく泥を塗るようなくだらない不祥事で、突然永遠の別れを迎えてしまったことが腹立たしいだけなのだ。
きっかけは第三者の悪意だとしても、結果としてあの唯一無二の奇跡は喪われた。
こんな不倫ごときに奇跡をも凌駕するほどの価値があったとは到底思えない。
一番失ってはいけないものを失った。
勿体ない。あまりに勿体ない。
こんな絶望的な状態で、どうやって今まで通り応援しろと言うのか。教えてほしい。
「室屋光一郎の奏でる弦の響きで、茅原実里が表現する音楽」というただの奇跡が、僕が愛したあのステージとあの音が、この世から永久に失われたという耐え難い事実だけが、そこにある。
・・・・・・・
思えば全ては答え合わせなのである。
事実、2015年後半から2016年にかけての茅原実里の表現力の幅の拡がりは、尋常ならざるものであった。
作詞能力がめきめきと頭角を現していくと思えば、感情表現も楽曲の本来持つ力以上の世界観を拡げていく。
特にInnocent Ageツアーでの豊かな表現の色合いには「ここにきて更に彼女は進化を続けるのか」と、ただただ驚愕したことを覚えている。
あの頃現場に行く頻度を減らそうと考えていた僕を思い留まらせたのは、確かにあの圧倒的なステージでの姿だったのだ。
あの溢れる才能を1秒も見逃したくなくて、Paradeの進む先に何があるのか1ミリも見逃したくなくて、僕は現場に通い続けた。
そうして見続けたこの軌跡は、僕の一生の宝物と言っても過言ではない。
報道が出た瞬間、内容を把握した途端、全てが腑に落ちてしまった。
それほどに僕は彼女のことを真剣に見過ぎていた。
だからこそ、ふたりがそういう関係になってしまったことも、現在の悲劇に至るプロセスも理解ができてしまう。納得ができてしまう。
あの時のブログも、あの時の発言も、山ほどある点と点が線になって形になってしまう。なんと虚しい図形であろうか。
ジレンマにも陥る。
人間は過去がなければ未来を作れない。
つまり、彼らが許されない関係にならなければ、僕が愛した世界は生まれなかったという可能性もあったわけで。
…これ以上は考えるのをやめよう。あまりに残酷すぎて、精神を蝕まれる。
未来は死んだ。
それは悲劇の一報が耳に入った瞬間から、覚悟をしていたことだった。
同時に過去も殺された。
これまでの全ての思い出が、優しくて綺麗な色をした宝物が、真っ黒な墨でぐちゃぐちゃに塗りつぶされてしまった。
・・・・・・・
彼女のとてつもない才能と魅力に心から敬意を持っていたから、今までは自信満々に誇りを持って言うことができた言葉がある。
「僕は茅原実里さんのファンです」
今ではもう言えない。
堂々とファンだなんて、恥ずかしくて言えたもんじゃない。
一生インターネットの海にデジタルタトゥーという形で、偏見と嘲笑の対象としておもちゃにされることは目に見えている。現に手遅れだ。
そんな屈辱に耐えられるほど、僕は生半可な気持ちで応援なんてしてこなかった。
「不倫」というあまりに使い古された、雑で俗な低レベルのゴシップごときに、僕の愛した奇跡と軌跡は上書きされてしまった。
こんな未来を望んでなんかいなかった。
これまでどれだけ素晴らしいことをしていても、これからどれだけ素晴らしいことを成し遂げても、何をしたって一生その汚名はついて回る。
そんなに規模の大きくない業界で、吐いて捨てるほど代わりのいる業界で、一生の傷に足を引っ張られ続けることがどれほどの機会損失であり、自滅行為なのか。
活動自粛が明けた今でも、果たしてそれをきちんと理解して彼女が活動しているのかどうかは、僕にはわからない。
誇りを持って彼女のことを応援していたから、彼女にももっと自分自身に誇りを持って生きていて欲しかった。
彼女に真剣であれば真剣であったほど、傷は深く、取り返しがつかない。
彼女に幸せになって欲しかった気持ちが強ければ強いほど、彼女が幸せとは真逆のところにいたことに呆れてしまって、反動で苦しくなる。
これは我儘な願いだったのだろうか。
盲目なファンの単なる自惚れだったのだろうか。
結局僕たちファンは本人から見せてもらっている姿しか、信じることができない。
僕が信じていたものは、彼女の本質ではなかったのだ。
とはいえ、決して裏切られたとは思っていない。
僕が勝手に信じていただけのことだから。
彼女が、いつも誰かを幸せにしているところを見るのが好きだった。
けれど今回の騒動で、不幸になった人間が一体どれくらいいるんだろう。
仕事仲間にも、これまで出演した作品にも、多かれ少なかれ迷惑をかけているという事実もきつすぎる。
だから今回報道された内容を決して擁護することはできない。
彼女がこれからどれだけ愛や夢や希望を歌ったとしても、彼女によって愛や夢や希望を失うことになってしまった人がいる。
僕もそのひとりだ。
彼女の放つ言葉に信憑性が失われてしまった事実は、何より致命的だと思う。
あんなに好きだった彼女の笑顔を素直に受け取ることはできない。
真っ直ぐでひたむきだと思っていた彼女の言葉も、真意を測りかねるようになった。
何より彼女が繰り返す「ありがとう」が全く心に響かなくなったと気付いた時が、一番ショックだった。もう潮時なのだと悟った。
何が正しくて、何が正しくないかはわからない。
けれど、少なくとも僕の思う「正しさ」と彼女の思う「正しさ」にズレを感じてきたことは大きい。
かつて彼女が口にした「人生は前にしか進めないから」という言葉に救われ続けてきた人生だった。
今ではその言葉が呪詛になって、僕を苦しめている。
前に進めない人生は否定されるものなのであろうか。
それらを全部無視して、無闇矢鱈と前に進むことに果たして意味はあるのだろうか。
それなら、前に進む人生などいらないと思ってしまった。
・・・・・・・
ファンを続けていく自信はない。
だからってアンチになるつもりもない。
骨の髄まで彼女に満ちた人生だったのだ。安易な否定は自分自身の人生すら否定することになる。
ちょうど騒動から3ヶ月になる。
今でも僕の日常は地獄そのものだ。
これは自分の愛する我が子を突然に殺されてしまった親の感覚に近いのだと気が付いた。
僕の愛していたものを返してほしい。
その願いは届かない。
それでも人間とは不思議なもので、僕は今だって彼女にはいつだって笑っていてほしいと思っている。
ちゃんと寝れているのか。ご飯は食べられているのか。
そんな心配ばかりしている。
…笑顔を見ることは、つらくてもう出来ないのだけれど。
こんなに傷付いて、これ以上傷付きたくないのに、彼女の心配をしてしまう自分が滑稽だ。お人好しすぎると思う。
ファンではない立場ならきっと違っていたのだろう。
もしも家族や友達。仕事関係者だったら。
今でも彼女を変わらず応援することができていたかもしれない。
失敗を諭して、背中を押したり支えたりすることができたかもしれない。
だけど僕はちっぽけなただのファンだ。
娯楽がこの世でひとつしかないわけでもないのに、一度でもくだらないことで失望させられるのなら、僕の貴重な時間やお金を費やすことに躊躇いが生まれてしまう。
それでも落ち目なら応援してあげるのがファンだと言うのなら、そう思う人がそれをすればいい。
僕は身から出た錆がきっかけで落ち目になるのなら、それまでだと思ってしまうので。
僕の好きだった彼女は、はちゃめちゃでもプロ意識という芯がまっすぐ突き刺さっているような人だった。あの日までは確かにそう見えていたのだ。
全くもって見る目がないと、大いに笑えばいい。
正直、憎んで憎んで嫌いになれたのならば、よっぽどそちらのほうが楽だった。
それが出来ないから、八方塞がりで苦しい。
・・・・・・・
彼女はこれからも歌い続けるだろう。前へと進むだろう。Paradeは止まらないだろう。
僕はとっくに四肢を引きちぎられてしまって、息も絶え絶えだ。
Paradeの列は遠く遠く、もう肉眼では見ることができない。追いつくことはできない。
当然、誰も待っていてはくれない。
今までもきっとそうだったのだろう。
Paradeの中にいた頃は、前しか向いていなかったから気が付かなかった。
僕よりも静かに、声を殺してParadeの列から零れ落ちた同胞に、心から哀悼の意を。
そしてまだParadeの中にいる皆さん。
どうか志半ばで散った者たちのことなど忘れて、ただ前へと進んでください。
楽園を失った僕は、ここで死にます。
これは遺書であり、ラブレターです。
茅原実里さん。
どうか幸せになってください。
お元気で。